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江岸寺(本駒込2丁目)

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写真: 江岸寺(本駒込2丁目)

写真: 江岸寺(本駒込2丁目) 写真: 駒込富士神社前(本駒込5丁目)

mixiアルバム「本駒込/駒込富士神社・「一富士、二鷹、三茄子」/江岸寺 ・鳥居家」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000054482456&owner_id=32815602
2012年03月25日 12:29

11.03.22.
●本駒込――
駒込片町、駒込曙町、駒込富士前町、駒込上富士前町、駒込吉祥寺町、駒込浅嘉町、駒込動坂町、駒込神明町、小石川駕籠町などが合併されて誕生。
古くからの駒込が豊島区と文京区とに分断されており、旧本郷区にあったこの地は本郷の駒込ということで住居表示の際に本駒込となった。
本駒込は文京区の北側に位置し、江戸時代諸藩の下屋敷や武家屋敷が置かれた。
駒込富士神社や駒込天祖神社、武蔵野市の吉祥寺のルーツである諏訪山吉祥寺はじめ、由緒ある寺社が数多く点在し、東京の都心にありながら緑地に富んでいる。

本駒込5丁目と豊島区駒込1丁目との堺で発見された、駒込1丁目遺跡からは、弥生時代後期の遺跡が発見されている。これまで20軒を超える竪穴住居が発掘されている。

駒込富士は前方後円墳の古墳といわれている。全国古墳編年集成では500年代末の前方後円墳とされている。

本駒込3丁目の動坂遺跡は、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見された珍しい場所。縄文遺跡は、縄文中期の住居跡と土器。
(近くの西ヶ原でも旧石器時代の出土品や縄文時代の集落跡が見つかっている。)
江戸時代の遺跡は、8代吉宗の鷹匠屋敷。現 駒込病院には動坂貝塚記念碑がある。


●駒込富士神社――
御祭神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。
創建年代不明。
拝殿は富士山に見立てた富士塚の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。いまなお「お富士さん」の通称で親しまれている。
天正元(1573)年、本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学構内に浅間神を勧請した。
寛永5(1628)年、加賀前田氏が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を一旦屋敷の外の本郷本富士町に移し、その後現在地へ。

江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織のひとつがあり、町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が数多く飾られている。
初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と、当時の縁起物として川柳に詠まれた。

縁日の山開き(現在6月30日〜7月2日)では土産の茄子が人気だったが、現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。
鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている。


●見海山江岸寺――
曹洞宗。
開基、鳥居忠政。以後、鳥居家菩提寺。
開山、駒込高林寺二世白洲哉。
忠政の父 元忠は、今川義元の人質となっていた竹千代(松平元信・元康。のちの徳川家康)の側近。
人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦等で家康に従い武勲を上げた。
天正18(1590)年、家康関東入府後、下総矢作(現 千葉県佐原市)4万石を拝領。
慶長5(1600)年、関ヶ原戦前、伏見城留守居役を命じられる。西軍からの伏見城の明け渡しを拒否し、石田光成等の総攻撃を受けた。これが関ヶ原合戦の口火となる。城を出て戦うこと5度、落城、討死。
忠政は大阪の陣にて江戸城留守居役。後、東北の押さえの地、山形22万石を拝領。
忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るために、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。
その後、6代 忠英の時に下野国壬生4万石に移封された。

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