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11.03.24.御竹蔵跡(墨田区横網1丁目)江戸東京博物館

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写真: 11.03.24.御竹蔵跡(墨田区横網1丁目)江戸東京博物館

写真: 御竹蔵跡(墨田区横網1丁目)江戸東京博物館 写真: 12.11.02.江戸東京博物館(墨田区)浅草寺観音堂 大棟鬼瓦

mixiアルバム「墨田区横網/御竹蔵 ・國技館 ・旧安田庭園 (11.03.24.)」
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000050694215&owner_id=32815602

2012年02月16日 22:02

よこあみという地名の由来は定かになっていない。その昔、隅田川の漁師の家があった事から、など。相撲とはまったく関係がない。
本所横網町と名が付き、明治時代には東京市本所区横網町が成立。戦後、本所区は向島区と合併、現在の墨田区横網となった。


●御竹蔵――
資材保管場所(初期は竪川近く、吉良屋敷近くまであった)。
御竹蔵は当初、建築用の資材が保管されていたが、今の猿江公園の御材木蔵に移されるようになると、蔵前同様米蔵となる(本所御蔵。享保19(1734)年より)。
明治維新後は陸軍の施設。


●“國技館”――
両国国技館とは一般向けの通称で、正式には旧字で上のように表記する。

先代、“常設館”は本所回向院の境内にあった。
明治39(1906)年6月着工、3年後の明治42(1909)年5月に竣工、6月2日開館式。この前日に常設館委員会 板垣退助委員長ほかによって「國技館」と決まる(提案者は当時年寄で検査役であった、元大関 大戸平(尾車親方)。)。開館直前まで「両国元町 常設館」だった。
大正6(1917)年11月29日、1階売店 福井軒にあった火消壷から出火、回向院本堂も巻き込み全焼。
大正7(1918)年、新國技館着工。翌年4月3日に鉄柱崩落事故が起きるも、大正9(1920)年1月15日、開館。これまで興業は靖国神社境内に仮小屋を建てて行っていた。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災――屋根、柱、外観を残しふたたび焼失。再建、翌年夏場所より興業再開。帝都各地で興業。また、本場所を名古屋で行うこともあった。
昭和19(1944)年2月、大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾製造工場として使用される。
小石川後楽園球場、神宮外苑相撲場(現 神宮第二球場)などで興業。後楽園での開催時は、8万人以上の大観衆が詰めたという(野外、晴天、10日目、日曜)。
昭和20(1945)年3月、東京大空襲――焼失。終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により接収され、メモリアルホールと改称、改装された。昭和21(1946)年9月24日完成。11月にこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用はない。
以降はボクシングやプロレスなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは昭和26(1951)年9月30日、ここメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦していたそうだ。全日本柔道選手権大会にも使用された。

昭和27(1952)年4月1日、接収が解除されるが、すでに蔵前国技館の建築が始まっていたこと、また駐車場設置の余裕が無いことから使用を断念、国際スタジアム所有となる。
昭和33(1958)年6月、日本大学に譲渡され「日大講堂」となる。様々なプロスポーツの開催は変わらず、日大のイベントなどに使用される。昭和43年から44(1968〜1969)年にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。
昭和57(1982)年、老朽化により使用中止。翌年解体。解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。中庭には、先代国技館があった当時の土俵の位置が、タイルの色で示されている。

敗戦後の大相撲の興行場所は、神宮外苑相撲場などでの野外興行を経て、昭和24(1949)年1月に日本橋浜町仮設国技館で行なわれた後、翌年1月に蔵前仮設国技館へ移り、その後昭和29(1954)年の完成以後、昭和59(1984)年の9月秋場所まで蔵前国技館を使用した。
昭和60(1985)年1月場所より使用されている現在の建物(新国技館)は二代目。

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