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上野恩賜公園(台東区)

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写真: 上野恩賜公園(台東区)

写真: 上野恩賜公園(台東区) 写真: 10.11.11.上野恩賜公園(台東区)

mixiアルバム「上野山1/彰義隊・西郷吉之助/」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000005452496&owner_id=32815602

2010年12月04日 14:28
10.11.11.
●上野山――
上野恩賜公園のある上野山は、北区方面から伸びる上野台地(武蔵野台地の分脈)の先端部分にあたり、正確には山ではなく台地だ。上野山は標高20mほどの高さをもち、上野の街は上野山の東と南に開けている。上野台地の西には東京大学がある文京区の本郷台地で、上野公園西南部にある不忍池はもともと両台地の間の谷(谷中、根津)を流れてきた谷田川(藍染川)が流れ込む場所に自然に形成された池なのである。現在では谷田川は地表から消滅、不忍池も江戸期以来面積を縮小させている。
※上野恩賜公園(上野公園)は日本最初の“公園”である。

戦国時代(現代の上野と捉える広域)は北条領(小田原衆所領役帳)。当時上野山は忍岡(しのぶのおか)と呼ばれていて、元々江戸においては人口の少ない地域だった。
1603年江戸幕府開闢時、忍岡には伊賀国上野を本拠地とする藤堂高虎の屋敷が置かれた。のち徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開ける。この頃から寛永寺付近の一帯を“上野”と呼ぶようになったらしいが…。
上野寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府の保護ゆえに繁栄、それに伴って門前町の上野も発展。寛永寺は江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。
明暦の大火後、上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代“下谷広小路”と呼ばれていた。
1868年、新政府軍と彰義隊による上野戦争で寛永寺が焼失し、その跡地が上野公園となった。その後、東京市15区6郡制の下で、上野公園とかつての門前町は下谷区に編入される。
※1883年上野駅開通。
※上野という地名は、藤堂高虎が当地の地形が本領の伊賀上野(いがうえの)に似ているから上野と命名したという説(江戸名所図会ではこの説は間違いとしている)と、小野篁(おののたかむら)が上野国(こうずけのくに)での任を終えて京へ帰る途中、当地に館を建ててしばらく滞在。その際地元の人が篁のことを“上野殿”と呼んでいたことが地名になったという説とある。(個人的には両方ともハズレであってほしい。)

●上野恩賜公園。通称上野公園。“上野の森”とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地“上野台”に公園が位置することから“上野の山”とも呼ばれる。総面積約53万平方メートル。東京都建設局管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設がある。また江戸時代の寛永寺の主要伽藍や子院群の遺構を地下に含有することから“上野忍岡遺跡”でもある。
三代将軍家光が江戸城の丑寅(北東)、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建立。以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。
1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている。
※「上野公園」は住所にもなっている。

●上野戦争への経緯を、彰義隊発足から↓コメントに。
※円通寺も参照されたし∠(` ´)ビ

●西郷吉之助さーについては、吉之助写真3枚のトコに。コメントご照覧さーノシ

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