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鳥羽・伏見合戦古戦場(伏見区)城南宮

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写真: 鳥羽・伏見合戦古戦場(伏見区)城南宮

写真: 鳥羽・伏見合戦古戦場(伏見区)城南宮鳥居 写真: 宮内少輔城址(渡辺館。左京区)

境内南と西に陣地。
第一駐車場の北と東あたり?



鳥羽・伏見合戦古戦場(伏見区)
17.12.04.
(→wiki)四侯会議の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年10月13日、14日に討幕の密勅が薩摩と長州に下される。これを受け、江戸の薩摩邸は政治活動を活発化させ、定め書きを書いて攻撃対象を決めた。攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
しかし、慶応3年(1867年)10月14日に将軍慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝えた。慶喜は10月24日には征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。
しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。
慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。
一方、討幕の実行延期の沙汰は江戸薩摩藩邸に伝えられたが、江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人はこの命令を無視して工作を続けていた。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失。これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。
一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大河内正質)を京都へ向け行軍させた。
慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる、藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、薩摩藩士税所篤が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。
新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により1月5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。(ちょい編集してますwiki←)


京都巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1btiUPPjWPU7FqnpsSyqhdwvohxs&usp=sharing

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  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    10:48城南宮P
    10:50城南宮10:56
    11:01鳥羽離宮跡11:05
    11:06小枝橋11:08
    11:17車スタート
    11:24伏見薩摩藩邸11:27
    11:32坂本龍馬避難の材木小屋跡11:33
    11:38ファミマP
    ―― 伏見長州藩邸
    ── 伏見口の戦い激戦地跡11:50
    11:54伏見御堂前コインP
    ── 伏見御堂11:57
    11:59浅右衛門12:21
    ── 伏見土佐藩邸12:29
    12:32寺田屋(不定休にあたる)12:35
    12:45新選組行軍路12:46
    12:48伏見奉行所12:53戦跡通過
    12:57縄張in
    12:59指月伏見城外庭石
    ── 浅野長政屋敷・有馬豊氏屋敷・蒲生秀行屋敷・松平忠輝屋敷
    13:07指月伏見城石垣
    ── 指月城・向島城遠景、片桐且元屋敷
    13:21セブントイレ13:26
    13:29伏見御堂前P
    13:38御香宮神社P
    13:56車復帰14:00出庫
    14:08木幡山伏見城P
    14:11巡回開始
    ── 北堀公園下りず
    14:42降雨
    14:45伏見桃山城公園終える・移動
    14:49桓武天皇陵
    15:06伏見桃山陵
    15:12伏見桃山東陵
    15:28切り上げ
    15:35参道分岐
    15:37車復帰15:40リスタート

    2017年12月15日 10:50 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

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