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高野山金剛峯寺 奥の院(高野町)明智光秀墓

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写真: 高野山金剛峯寺 奥の院(高野町)明智光秀墓

写真: 高野山金剛峯寺 奥の院(高野町)信州高遠内藤家墓所 写真: 高野山金剛峯寺 奥の院(高野町)石田三成墓

ツイのちmixi掲載のち……

mixi記載よりコピペ――
2017年04月26日 12:44
17.04.10.
3度目の明智光秀つぶやきです┌(_ _)┐
明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」を読んだ所感込みの概要です。ずいぶん前ですけども<(≧ε≦)テヘペロ

本能寺の変──謀反の動機について、怨恨説、野望説などいくつかの定説の根拠の脆弱性は先に記しました。

黒幕説。朝廷、幕府。これを担ぎ出すような言動が見られるのは、自分の立場、そして政権確立に必要だった政治的なもの。

愛宕百韻の発句。謀反をたくらむ者が、謀反を疑われるような意味をもつ句を詠むだろうか。

「時は今 あめが下なる 五月かな」──あめが下しると誤って詠まれ、そちらの意味でしか解釈がされていない。ある意味単純に、ある意味複雑怪奇に、光秀を蔑める解釈がされてきた。

秀吉がただ一言、天下取りの野望を示す句だと表したせいで。

愛宕百韻の挙句は光秀嫡男 光慶で、百句目は祝言の句として前の句に囚われずに詠んでいいとか。光慶が唯一詠んだその句は、「国々は猶 のどかなるとき」……。

これは父 光秀の発句に掛かる。連歌の作法で挙句はあらかじめ用意しておくもので、もしかしたら光秀がこれを教え込み同席させたのではないか。

この句は領国の安寧を祈願していると解釈でき、すると光秀の発句は、土岐氏は今この五月雨に強く叩かれている苦境にある、と詠み変えられ、苦境にある一族の安全と復興・繁栄、つまりは戦勝の祈願と解釈されている。

信長に付き従い、戦乱の世を終わらせる──

明智光秀が土岐一族(美濃土岐氏・土岐源氏)であったことは間違いないとされている。美濃で分出した庶家は100余におよび、明智荘に拠った明智氏は土岐明智を称し土岐の苗字(本姓は源)を名乗り続けたよう。

「名前 ――氏2」
http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11051788032.html

旗印は“桔梗紋”ではなく“土岐桔梗紋”。

多田源氏(または摂津源氏。清和源氏嫡流 頼光流) 源頼光の子孫(7世代のち)土岐光衡を祖とする。美濃源氏。

鎌倉期から南北朝において栄華を極めるも、足利義満の謀略により没落、応仁の乱から戦国期にいたり、斎藤道三により美濃を追われた。土岐頼芸…。

土岐明智は足利義満の謀による土岐一族内乱、分裂からの弱体化の折、幕府奉公衆となっている。奉公衆となった土岐一族庶家は結束し、その勢力下において改めて土岐一族は権勢を得るにいたった。

最盛期を極めた土岐頼康の時代より、土岐氏一族庶家は「土岐桔梗一揆」と称された。一族の発展は強固な結束のもとに成ったと考察される。それを足利義満に破壊され没落、その幕府下において再び結束、下克上で再び没落、そして明智光秀の台頭……。

「江戸時代10/一揆・検断・悪党」
http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11223385392.html
一揆とは“揆を一にする”という意で、ひとつの目的のために団結する集団のこと。

――行間1――

黄昏の番犬 2017年04月26日 12:44
愛宕百韻の発句に、百句で構成される連歌に、裏の意味を込められるのは発句・脇句・第三の三つ物と挙句の四つの句のみ。

脇句はホスト役の西之坊行祐。光秀の発句を受けて、「水上まさる 庭の夏山」と詠んでいる。この行祐とは天正3(1575)年より親交がある。

第三は紹巴(じょうは)。相伴役。「花落つる 池の流を せきとめて」と詠む。紹巴とは永禄11(1568)年から親交がある。

ふたりとも土岐明智の立場や心境を知っており、光秀の思惑を慮って詠み込んだだろうと解釈する。

折しも五月雨が降りしきり、川上から流れてくる水音が高く聞こえる夏の築山→ 土岐氏の先祖よりも勢いの盛んな日向守殿。(そうであるから祈願は叶いますよと。

花が散っている池の流れをせき止めて→ 美濃守護職を失った池田氏の系統は止めて。(池田氏にかわり土岐氏棟梁を引き継げばいいのですと。

次が誤解の重大な問題だった。愛宕百韻が最初に世に知らされたのは惟任退治記なのだが、定説の誤りない根拠とされたのは、史料価値一等の太田牛一著の信長公記でも改竄された三つ物が記されたためだ。

発句のみならず、脇句・第三も改竄され、太田牛一に伝えられたのだ。誰かが改竄し太田牛一に吹き込んだと考察している。

誤った記載のまま写本が作られ、その写本から写本が次から次へと作られた。太田牛一著の原本さえ複数あったが、繰り返される写本は誤写・誤記を生み、多種の信長公記を生み出す結果となってしまっている。

それが誤りだと認められたのは、原本のひとつ、現在「池田家本」と呼ばれる信長公記の該当部分が太田牛一の筆跡で修正されているものが存在するためだ。

誤りを伝えた人物、愛宕百韻を改竄したのは天正記作者 大村由己と考察される。惟任退治記は天正記2巻。大村由己は秀吉の命で自分の業績を次々と書物にさせて、統治、天下取りに利用する。

本能寺の変後、太田牛一は丹羽長秀に仕えていたが、秀吉に招かれて大村由己と同僚になった。愛宕百韻、明智光秀の情報を得ようと思ったら、すぐ隣に惟任退治記の作者がいるわけだ。

信長公記には謀反の心の現れ、などとは記されていないが、多くの現場の様子が記されている。そのことから、愛宕百韻の参加者から話を聞いたと推察されたが、その相手が同僚となった大村由己だと考察されている。大村由己は弘治2(1556)年から紹巴と親交がある。

大村由己は愛宕百韻に参加していない。惟任退治記作成にあたり、紹巴から話を聞いたとされる。そして、豊臣秀吉を光らせるために、明智光秀を貶めるために、発句を改竄しようと閃いた。そして興行日も改めてしまう。諸々秀吉から命令があったかは不詳。

同じく連歌を嗜む大村由己に句の改竄は問題なかった。紹巴もなんとか口説いたのだろう。だが謀反の心ありとすると、愛宕百韻に参加した100名がみな嫌疑をかけられ、処刑される恐れを覚えた。取り調べが行われれば、紹巴などは身を守るためにたやすく改竄を打ち明けるだろう。

そこで大村由己は、惟任退治記の「謀反の先兆」の後に「何人か兼ねてこれを悟らんや」と書き加え、謀反の心が詠み込まれているとは誰も分かるわけがなかった、と配慮したのだ。

これで一件落着かと思いきや、信長公記を作成する太田牛一に愛宕百韻について諸々尋ねられることになった。紹巴より仕入れた情報を提供したが、脇句と第三は提供するわけにいかなかった。

「下しる」という発句に対して行祐と紹巴の句をそのままにしたら、ふたりが謀反に共謀したと捉えられてしまうからだ。

こうして大村由己は、「夏山」を「まつ山」に、「池の流」を「流れの末」と改竄して太田牛一に伝えたわけだ。

太田牛一が連歌を嗜んでいたかは不詳だが、どうしてか光秀の発句が誤りだと知り、これを訂正した。

おまけ。土岐氏で回想<(≧ω・)
※婆娑羅──ばさら。婆娑羅大名。鎌倉期から室町期の社会思想や美意識を示す流行語。華美な服装や破天荒な行動を意味している。土岐頼遠、高師直、佐々木導誉などが有名。バサラ。



まさかこの書で婆娑羅を見かけるとは思いませんなんだ(´ε` )

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