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塚原城跡外郭(塚原氏居館跡。鹿嶋市)

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写真: 塚原城跡外郭(塚原氏居館跡。鹿嶋市)

写真: 鎌足神社(鹿嶋市) 写真: 塚原城跡外郭(塚原氏居館跡。鹿嶋市)

――mixi記事コピペ――2013年11月29日 11:26

立像。
鹿詰児童公園。駅近く。



墓地。
鹿嶋市須賀 梅香寺跡。

延徳元(1489)年〜元亀2年2月11日(1571年3月6日)。
鹿島神宮神官で大掾氏の一族 鹿島家四家老がひとり、卜部覚賢(吉川覚賢)の子として生まれる。幼名 朝孝。養子に出、諱を高幹。のち号を卜伝。
新右衛門、土佐守などを名乗り、土佐入道が通称のよう。
塚原安幹の養子となった時期は不詳。

※大掾氏(だいじょうし)――中世常陸国に勢力を持った一族。軍事貴族。坂東平氏(桓武平氏)国香流。常陸平氏嫡流。

実父から鹿島古流(鹿島中古流)、義父から天真正伝香取神道流を学ぶ。
「関八州古戦録」・「卜伝流伝書」によると、松本政信の奥義“一の太刀(ひとつのたち)”も養父の安幹から伝授されたとある(卜伝自身が編み出したとする説もある)。
「卜伝百首」の後にある加藤相模守信俊による序では、39度の合戦、19度の真剣勝負に臨み、一度も負傷しなかったと記述されている。生涯に斬って捨てた剣士の数は、記録に残っているだけでも212人。川越城下での梶原長門との対決は史実。講談「なべぶた試合」著名な、宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話、これは真っ赤な嘘。時代が異なる。武蔵が生まれるよりもずっと前に卜伝は死んでいる。“剣聖”と謳われた人物で、講談には好まれたという。

弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(うじい しょうけん。弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤伝鬼房(勝秀)ら一派を編み出した剣豪、細川幽斎、今川氏真、また、足利義輝や北畠具教にも剣術を指南した。この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。

83歳で死去。墓は須賀村の梅香寺に建立された。のちに同寺は焼失、墓のみが現存している。位牌は近くの長吉寺にある。
戒名は宝剣高珍居士。



塚原城跡。
塚原氏居館跡。
子細不詳┐(-_-Ξ-_-)┌
主郭は西に置かれていたと思われ、北浦を眺望できたことだろう。水運としても防衛としても用いられたのでは。
台地上まで比高およそ20m。ここが河岸だったとも考察される。某が不詳のため記していないが、郡家の移転については海抜の影響もあったのではないだろうか。
鹿島城同じく、廃城とされてからは畑地であったため、遺構部分は明確ではないと思われる。当然発掘調査等々が行われた結果のものだが…。
よって、外郭のみ。台地上へは赴かず。

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