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高林寺(向丘2丁目)

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写真: 高林寺(向丘2丁目)

写真: 北野神社(牛天神。文京区春日) 写真: 吉祥寺(本駒込)

高林寺(向丘2丁目)

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mixiアルバム「高林寺/緒方洪庵 ・法眼 (文京区向丘2丁目)」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000054100482&owner_id=32815602
2012年03月21日 19:37

11.03.22.
(1年前の写真をようやくか……(ノ_・。))
●金峰山高林寺――
元 曹洞宗。 単立。
慶長元(1596)年、幡羅郡下奈良寺集福寺 十一世桂岩和尚開山。
慶長9(1605)年、2代秀忠により金峰山神杜跡地(神田山北側。現 お茶の水坂に面した元町公園辺り)に創建。
4代目住職 白州和尚の時、境内の湧水で茶を飲んだところ、良質かつ美味しかったため、江戸城へ献上した。これが「茶の湯にこの水が最高」と評価され、以来、“お茶の水高林寺”と呼ばれるようになる。この辺りの地名が「お茶の水」と呼ばれる由来。
(“聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。神田川堀割の時ふちになりて水際に形のこる 享保14年江戸川拡張の後川幅を広げられし時、川の中になりて今その形もなし”)
明暦の大火の後、当地へ移転。
元禄4(1691)年、5代綱吉開基。将軍家の武運長久の祈願寺として再建。
伽藍が整い、学寮もあり、土塀をめぐらした江戸時代の名刹だった。
関東大震災と第二次大戦で焼失、現在の本堂は昭和51年の再建。
墓地内には、幕末期の蘭学者緒方洪庵、明治・大正期の歌人岡麓の墓がある。


●緒方洪庵――
文化7年(1810)年生まれ。備中国足守藩下級藩士、佐伯瀬左衛門惟因の三男。
諱は章、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。
江戸後期の武士、蘭学者、医者、教育者。
8歳のとき天然痘にかかる。 
大阪、江戸、長崎で勉学に励む。
天保9(1838)年、大坂 瓦町(現 大阪市中央区瓦町)で診療開業。同時に蘭学塾“適々斎塾(適塾)”開講。
同年結婚。のち6男7女を授かる。
嘉永2(1849)年、佐賀藩が輸入した種痘を得、古手町(現 大阪市中央区道修町)に除痘館を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。
嘉永3(1850)年、郷里の足守藩より要請があり足守除痘館を開く。牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となったため、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続けた。その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走している。
安政5(1858)年、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認、牛痘種痘を免許制とした。
同年、コレラ流行に際し“虎狼痢治準”と題した治療手引き書を出版し医師に配布。医療の近代化が進む。
文久2(1862)年、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸へ出仕。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦。暮れ、“法眼”に叙せられる。

文久3(1863)年、医学所頭取役宅で突然喀血、窒息により死去。享年54(数え年)。

日本における西洋医学の基礎を築く。
日本最初の病理学書“病学通論”を著した。
適塾出身者。福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など。

※法眼――
佐藤泰然、松本良順なども叙せられた。
仏教における僧位のひとつ。法眼和尚位またその略称。中世・近世、僧侶に準じて、仏師・絵師・連歌師・医師などに与えられた称号。

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